バレンタインチョコレート



月14日はバレンタインデー。

世間は俄然盛り上がるけれど、僕たちの学校は落ち着いたも
の。

教師も生徒も職員もほとんどが男子で、女性は食堂のおばさんたちくらいだ。


食堂のおばさんたちはあまりの男子の多さにきりがないと言って、さっさとバレンタイン行事は放棄している。

先生たちはそんな浮ついた行事などには隙を見せないし、僕たち生徒も親やガールフレンドから送られてくるチョコレートを、オフィスルームで各自速やかに受けとって、後はみんなで適当に分けて食べるだけだ。

一年に一度のバレンタインデーも、ここではごく普通に過ぎて行く。



いつもの花屋の奥の部屋、先生はガラスケースの中の生花を補充していた。

ダンボール箱で2箱。押し車で運んできた僕に、先生が当然のように指示を出す。


「白瀬君、違うよ。床は水で濡れるだろう。テーブルの上。そこに置いといて」







オフィスルームのスタッフから僕に連絡が入ったのは、四時限が終わって昼休みのことだった。

食堂で達彦たちと昼食を摂っていたら、校内放送で呼び出しを受けた。

「君が白瀬君?それじゃここにサインして」

スタッフの1人が用紙を差し出した。委任状だ。本条先生の代理人としての。

「どうして僕が・・・」

この人に聞いても仕方のないことなのだけれど。

「さぁ?とにかく本条先生に連絡したら、君にもって来さすようにとのことだったのでね。
授業が終
わり次第早く取りに来てね。もう毎年場所取っちゃって・・・」

不機嫌そうに話すスタッフに、ついすみませんと言いながらサインをした。







「何だか毎年って言ってましたけど・・・オフィスルームの人」

「うん、不機嫌そうに言ってたろう?
去年は一週間くらい取りに行かなかったら、持って来てくれ
たんだけど」

生花の補充を終えた先生がダンボール箱を開けて、中から綺麗にラッピングしてあるひとつを解いて僕に手渡した。

「チョコレートだよ。はい、お駄賃にひとつあげる」


今日は土曜日だ。バレンタインは先週の月曜日だったので、もう二週間近く放ったらかしにしていた計算になる。

オフィスルームのスタッフの人が不機嫌になるのもわかる。

それにしてもすごい量のチョコレートに、僕は言いたいことも忘れて驚いた。



「先生ー、重てぇ・・・半分持って行ってくれてるのかと・・・」

部屋の扉が開いたかと思うと、またひとつ大きなダンボール箱を抱えた生徒が入って来た。

「あれ・・・?」

抱えて来たダンボール箱をテーブルに置きながら、不思議そうに僕を見る。

黄色の名札紐・・・中
等部三年生。


「青色・・・ってことは、高等部二年?俺の先輩になんの。先輩も謹慎?」

・・・先輩!?めったに言われたことがないので少し戸惑った。

「いや、僕は違うよ。先生の荷物を持って来ただけだから。それじゃ、僕はこれで」

間違うのも無理はない。こんな奥まで普通生徒は入って来ない。


―北沢 直紀(きたざわ なおき)―


僕を先輩と呼んだ彼の名前。



「直、そこのダンボール三箱、チョコレートの包装全部解いて」

「えぇっ!俺ひとりでこんなにたくさん出来ねぇ!
だいたいこれみんな先生のじゃん!」




先生が直径15cmくらいの花籠のバスケットを作る。

透き通るような赤はアネモネの花籠。紫の花籠はクロッカス。

シクラメンの花籠はまるで真綿を乗せたようだ。

小さな可憐な花籠が先生の手から幾つも幾つも零れるように出来ていく。



「ひゃあ、PTAからごっそり。
地域ボランティアの会も・・・えっとこっちが自治会役員・・・」


「直、もっと丁寧に・・・いちいち送り主なんか確認しなくてもいいから、さっさとする。
せっかく白
瀬君が手伝ってくれてるのに」


花籠を作る先生の横で、僕と直紀がチョコレートの包装を解く。

メッセージカードや手紙は一通り目を通した後、ひとまとめにして解いた包装紙やリボンと一緒に燃やすと先生は言う。



「でもよかったぁ。先輩が手伝ってくれて。俺こういうの苦手なんだよね」

直紀が単純に喜んだ顔を、僕に向けてくる。

少々言葉使いは荒いけど人当たりのいい、誰とでも
友達になれるようなタイプだ。

実際僕にも遠慮なくしゃべりかけてくるけど、でもちゃんと上下をわきまえた話し方をする。


「苦手じゃなくてもこの量じゃ大変だよ。
なのにずっと置きっ放しで、オフィスルームの人が
不機嫌になるのも・・・」

不機嫌なのを承知で取りに行かせられたうえに、さらに手伝いまでと思うとつい愚痴のひとつも言いたくなる。

僕が先生の方に向きながら話すと同時に、先生は直紀の方を見て言った。

「直、籠が足りない。裏の倉庫から取って来て」



色とりどりの小さな花籠が三十個。チョコレートを空けたダンボール箱に詰める。

それに包装を解いたチョコレートをまたダンボール箱に詰める。

花籠を詰めたダンボール箱が二つ。チョコレートのダンボール箱が一つ。

箱に入りきらなかったチョコレートは、花を貰いに来てくれる人たちにあげるのだと先生は説明した。



「けどさぁ、先生ってもてるんだね。うちの学校でバレンタインしてるのって、先生だけじゃん」

僕もそう思う、お世辞ではない素直な直紀の感想だった。


しかし先生は手紙やメッセージカードを照れる様子もなく束で掴みながら、ため息混じりに言ってのけた。


「おばちゃんばっかりだけどね・・・」





午後6時半を過ぎて、チョコレートの整理もようやくついた。

ダンボール箱に詰めた花籠とチョコレートはその後どうするのか少し気になったけれど、あえて聞かなかった。

月曜日から試験が始まるので、今は出来るだけそちらの方に時間を割きたい。

これから帰って達彦たちと夕食を済ませたら、すぐ試験勉強を―。


「何時?もうすぐ夕食だね。白瀬君食堂に行こう」


だから誘われる前に帰りたかったのに・・・。






宿舎の食堂で夕食を摂る。

直紀はニコニコと僕の横の席に着いた。

先生と向かい合いながら、話題はやはり先ほどの花籠とチョコレートの話になった。

「先生、あの花籠とチョコレートどうすんの?どっか持ってくんだよね」

直紀が当たり前に聞いた。

「うん、うちの学校と提携している幼稚園があるんだけど、そこに持って行く」

幼稚園・・・だから小さい花籠とチョコレート。

「ふ〜ん・・・」

直紀は興味なさげな返事をして、もうそれ以上聞くことはなかった。

その後は僕との他愛のない話に終始した。


直紀は早く高等部に上がりたいと言った。

中等部の寮は一室二名のツインルームだが、高等部になると一室一名のワンルームになる。

入学したての頃はまだ学校の様子もわからなくて、しかも慣れない寮生活で同室のルームメイトは心強いけれど、三年生ともなるといい加減ひとりの時間が欲しくなる

わかる、わかると相槌を打つ僕に、直紀は嬉しそうに笑顔を返した。


食事もそろそろ終わる頃、僕たちの話を黙って聞いていた先生が直紀の方を向いて言った。

「明日午前中に持って行くよ、直」

直紀は意外そうな顔をした。

「俺も行くの?だって俺謹慎中だから外出られない・・・」

「いいさ。僕が一緒なんだから。それに明日は日曜参観で園児たちも来てるんだ」

先生がじっと直紀を見ている。

直紀はその視線を避けるかのように、僕を見て言った。

心なしか焦るような口ぶりだった。

「先輩が行けばいいんじゃないの。・・・いつも先生の手伝いしてるんだろ」


和やかな雰囲気がいつの間にか消えている。直紀が笑っていない。


「明日、8時にはここを出るからね。車は荷物があるから乗用車よりライトバンだなぁ、いいかな?直」

先生が直紀の言葉も雰囲気もまるで無視して、車はライトバンでいいかと聞いている。

直紀もそんな先生の言葉には答えない。

わずかな沈黙の後、押し殺すような直紀の声だった。

「・・・先生、俺が小さい子苦手なの知ってるだろ。
・・・・・どうせ親から聞いてるくせに」


「知ってるさ。だから行くんだろう、苦手克服。
しかもちょうど6歳児クラスだよ、ひょっとして
君の・・・」


ガターンッ!!


直紀がいきなり立ち上がって、椅子が後ろへ倒れた。

「やめろよ!苦手克服・・・?簡単に言うなよ。知ってるならなおさらサイテーだな、先生。
そんな
のは俺の神経逆なでするだけなんだよ!!」

完全に直紀は逆上していた。たぶん・・・その原因が今の謹慎に繋がっているのだろう。

先生は何も言わない。ただじっと直紀を見るだけだ。


「北沢君・・・とにかく少し落ち着いて。僕が立ち入る話じゃないから余計なことは言わないけど、
でも先生に対するものの言い方だけは気をつけたほうがいいよ」


倒れた椅子を起こしながら、僕は直紀に言った。


「うるせぇ!!あんたのそれが余計なことなんだよ!!」



ガンッ!!


起こした椅子を直紀が再び蹴り倒した。


「直紀!!」

先生の叱責が食堂に響いた。







―トントントン・・・―

先生の中指がテーブルに一定のリズムを刻む。

先生は直紀が飛び出して行った食堂の入り口を、その動作を繰り返しながら見つめているだけで後を追おうとはしなかった。


僕はとりあえず三人分の食器をカウンターに戻してから、三階の直紀の部屋へ行った。

部屋をノックしても応答がない。僕がいた部屋だ。ふと懐かしさが込み上げる。

鍵はついていないのでそのままドアを開けた。

しかしドアを開けると、家具の位置やカーテンの
色など何も変わってはいないのに、懐かしさどころかまるで他人の部屋の感じがした。


ベッドサイドに飾られた花。

水色の小花・・・勿忘草(わすれなぐさ)が枯れることなく咲いてい
た。

そうだ、ここは直紀の部屋だ。

花籠とチョコレート。

幼稚園に持って行く先生の付き添いを嫌がった直紀。

部屋にいない直紀が居るところ。


花屋の奥の部屋―。







「北沢・・・何してるの、君・・せっかく先生が作ったのに・・・」


きちんと詰めてテーブルの上に置いておいた花籠の箱もチョコレートの箱も、みんな床にぶちまけていた。

僕の声で振り向いた直紀は、転がる花籠のひとつを足で踏み潰しながら言った。

「俺を刺激するなよ・・・」

そしてまたひとつ踏み潰す。

「いい加減にしろ、北沢!」

直紀の靴の下でクロッカスが朽ちる。

抱き付くようにして直紀を止めた。



「いいんだよ、好きにさせてやれば。それで直の気が済むのなら」

扉の入り口に先生が立っていた。先生はまっすぐ直紀を見る。

目をそらすことなく一歩、一歩と直紀に歩み寄る。

威圧感に直紀の顔が青ざめる。

でも青ざめるということは、自分のしたことに気が付いている証拠だ。


先生が直紀の前に立った。


直紀の足元で朽ちたクロッカスの花籠を拾い上げながら

「済まないだろう、直・・・、こんなことをしても」

先生の威圧感がスゥッと消えて、諭すように語りかける。


途端、直紀の瞳の奥の動揺が止まった。


「ああ、済まないよ・・・先生。これくらいじゃ・・・」


いきなり直紀が僕を突き飛ばして、テーブルの椅子を掴んで振り上げた。


「あっちへ行けよ!!」


再び直紀の抑え切れない感情が爆発する。

「その椅子をどうする気だい。僕に投げつけるのかい。直紀!!」

二度目の先生の叱責が響いたその瞬間。


グワァシャァァ―――ン!!


飛び散るガラスの破片。僕は思わず顔を覆ってしゃがみ込んでいた。


直前―

直紀が先生の立つ、側面のガラスケースに椅子を投げつけた。

れはまるでスローモーションのように僕の目に入ってきた。

次に目に入って来たのが、直紀に覆いかぶさるように割れたガラスケースに背を向けた先生の姿だった。


「直・・・ルームメイトの渡辺君もこうして妹を守ったんだよ。君が寮の窓ガラスを叩き割った時だ」


先生が直紀を抱きしめながら、直紀の心に触れていく。少しずつ、少しずつ―。


「・・・だって、あいつが・・部屋にまで自分の妹を連れてくるんだ・・・。
俺・・・やめてって・・・言っ
たのに・・・」

「そんなに他の子は許されないのかい?」

「・・・妹は・・・まだ6歳だったのに。だめなんだよ、俺・・・。
同じ年頃の子を見ると・・・妹を思い出す
んだ・・・」

直紀が先生から離れた

見上げた目はすでに涙で濡れている。



「違うだろう、直。自分のせいだと思う気持ちが苦しいんだろう」


直紀の表情が驚愕に変わる。

それは先生の言葉でなのか、その姿でなのか。

飛び散ったガラスの破片をまともにその背に受けた先生は、身体を起こすとザラザラッと小さな音がして幾枚もの破片が床に落ちた。

僕は少し外れた位置にいたので、すぐ先生に走り寄ってジャケットをそっと身体から抜くように脱がせた。

血がしたたり落ちる。

腕を切っていた。左腕だ。深く切れているようだった。


あとこめかみの下を破片がかすめたのだろう。そこからも血が流れていた。

割れたガラスケースの生花の一群は、投げつけられた椅子の下敷きになっている。

反動で跳ね飛ばされた花瓶が、中からガラスケースを突き破って外に転がり落ちていた。

直紀の大きく見開いた目が、どうしていいのかわからない収拾のつかない気持ちをあらわしているようだった。


先生が固まる直紀の両腕を掴む。

引きずるようにテーブルを回り込み、割れたガラスケースが真正面から見える位置に手をつかせた。

そのまま後ろから両手を押さえ込んだ。


「手はそのまま。正面を見てごらん」


静かな先生の声だけれど、震える直紀の両腕が押さえる先生の力の強さをあらわしていた

そうして少しの間そのままの状態でいることで、直紀にその体勢を保つことを先生は示唆する。

直紀の手がテーブルから離れないのを確認した先生が、直紀のズボンと下着を下ろした。


強張った直紀の体がわずかに先生の方に振り向こうとした時、


「君のしたことだ。直紀!君は今まで何をしてたんだい!!」


バシィ―ンッ!!


強烈な先生の平手が直紀のお尻に振り下ろされた。


「っ・・うわぁっ!!」

思わず直紀の体が仰け反った。

いやでも正面の割れたガラスケースの惨状が目に飛び込む。


バシィ―ン!バシィ―ン!バシィ―ン!・・・


繰り返し振り下ろされる。緩むことのない強烈な先生の平手が。

その一打一打に直紀の体は仰け反った。悲鳴すらも断ち切られるような先生の平手だ。


しかし、直紀のお尻を叩く先生の左側にも血溜りが出来る。

「あひっ・・痛ぃ・・。先生・・わかってるけど・・・俺・・どうしようもないんだ・・・苦しいんだ。
俺が・・
ちゃんと見てれば、手を繋いでやってたらって・・・」


バシィ―ン!!


「ぎゃっ!!」


先生が、直紀の感傷も罪の意識も打ち壊す。


「誰かがそれを責めたかい?自分でそう思うならその気持ちを忘れないことだ。
後悔は悪いこ
とじゃない、明日の糧につながるんだよ。それでいいじゃないか」


「・・何で?先生・・・だってあんまり可哀想だろ・・妹はたった六年しか・・・」

「直、君の妹は不幸だったかい、思い出してごらん」

先生は振り下ろす平手をいったん止めて、直紀に考える猶予を与えた。


「・・・妹は、みんなに愛されてた。先生・・妹が生まれた時は母さんがとっても喜んで、女の子だって。
俺と父さんもすっごく嬉しくって、弟だけがちょ
っと拗ねてた・・・」


「直、人の一生は平均寿命で幸せとか不幸が決まるのかい?
違うだろう、そんなもので計れる
ものじゃない。君の妹は可哀想だったかい?」


手をついたテーブルにボタボタと大粒の涙を落としながら、直紀がゆっくりと頭を振ってうな垂れた。


「直、4月には弟が中等部に入学して来るんだろう。兄さんの君がそんなでどうするの」


うな垂れる直紀に先生は弟もいるのだと、それでいいのかと兄としての自覚を促す。

促すと同時に先生の平手が血溜りを作りながら再開された。


バチィ―――ンッッ!!バチィ―――ンッッ!!


「あっっ―!!ひぃ・・たぁ―いっっ!!せっ・・先生!痛てぇ―!!」


今までの直紀の思いの全てが、吹っ飛ぶほどの悲鳴が上がった。


「何だい、このくらい。人に当り散らして物に当り散らして、そうしないとバランスが保てないほど苦しかったんだろう。
それに比べればこんな痛み、どうってことないだろう。直紀!!」



バチィ―――ンッッ!!バチィ―――ンッッ!!


「ひやぁ!!うぁ・っ・・わ・かったから・・やめてくれよぉ!!痛てぇんだよ!!」


「言葉使いも悪いな!4月から高等部に上がるんだろう。直紀!!」


バチィ―――ンッッ!!バチィ―――ンッッ!!


「ひぃぃ!き・・気をつけます!・・いっ・・痛いです!!」


先生はひとつごとに直紀、直紀と諫める。いつの間にか言葉使いまで注意されている。

それにいちいち反応する直紀はもう大丈夫だろう。

先生と直紀はそのままに、僕はダンボール箱をテーブルに戻して転がる花籠とチョコレートを拾い集めた。

割れて飛び散った床のガラスはきれいに掃き取って、園芸用の厚手の袋に入れた。

破片の残るガラスケースに気をつけながら椅子を取り除いた。

ホースを蛇口に付けて、あとは床を洗い流すだけだ。


「部屋の花にも水をやってないだろう!
あの花だけは枯らしちゃいけないと言っておいたはず
だろう!直紀!!」


バチィ―――ンッッ!!バチィ―――ンッッ!!


「はいぃ!!・・ごめんなさい・・ひぃっ・・く・・うっ、うっ・・・」


枯れていなかった直紀の部屋の勿忘草。先生が水をやっていたんだ。

直紀はたぶん花の名前すら知らないだろう・・・その意味も。


―ワタシヲワスレナイデ・・・
             忘れないでね、大好きなお兄ちゃん―



二人分の献血は出来ただろうか。

直紀のお尻を叩いていた間中、先生の腕の傷口からは血が
止まることなく流れていた。

テーブルの椅子に座った先生のカッターシャツの袖を、肩口からハサミで切って紐状にして上腕部を締め付ける。

「医務室に連絡しましょうか。
傷口が開いたままで出血もかなりしているみたいですし」


「いや・・・いいよ。大丈夫さ、このくらい。
しばらく腕を動かさなかったら血も止まる」



直紀が上半身をテーブルにベタッとつけて泣いている。


ズボンと下着もまだそのままだ。

「いつまでそんな格好で泣いてるんだい。さっさと服を整える」

先生がいともあっさりと直紀に言う。

直紀は顔を上げて体を起こそうとするが、また痛いと言っ
て泣いた。


死ぬほど叩かれる・・・そんな表現がピッタリの直紀のお尻だった。

二月の水は身を切るような冷たさだ。タオルを濡らして直紀のお尻に当てた。

「少ししたら楽になるよ。ちょっとの間我慢だよ。お尻も格好もね」


直紀の涙で濡れた顔が嬉しげに僕に向いた。


「先輩、ありがとう。・・・さっきは俺、ごめんなさい」


格好よりも楽な方をとるところが、やはり中等部はまだ子供だ。

最後に用意したホースで床を洗い流す。真っ赤な血溜りが川を作って部屋の隅の排水溝へ流れた。



今何時頃だろう・・・。またこれで試験勉強の時間が潰れた。

心の中でつぶやきながら、ようやく血が止まった先生の左腕を確認し、こめかみ辺りの傷もウエットティシュで拭って消毒液をかける。

もう一度直紀のお尻のタオルを代える。

黙って二人の手当てをする僕の横で、先生と直紀が明日のことについて話していた。


「明日予定通り行くから。チョコレートもまだあるし、花籠はこれから作り直す。
どうするの、
直?」

今度は強引ではない先生の誘い方だ。

「・・・行きます。・・・でも大丈夫かな、俺・・・。ちゃんと出来るかな」

「大丈夫さ。キレかかったらその場でまた直のお尻叩いてやるさ。
・・・ところでもうそろそろお尻
しまったら」

先生は怪我をしていない方の手を伸ばして、直紀の頭を撫でつつ不安を一蹴した。


完全に血が止まった先生の左腕の傷口周りを濡れたタオルで拭いて、念のために血止めスプレーをかける。

「明日、出掛ける前に一度医務室に寄られた方がいいと思いますけど」

聞いてないだろうなと思いつつも言ってみた。


「うん・・・、そうだ明日はやっぱりライトバンはやめて乗用車で行こうか、直。
終わったらそのま
まドライブしよう」

「ドライブ・・・乗用車は何?先生」

直紀が服を整えながら聞いている。痛みはずいぶんと引いたようだ。

「ワーゲン」

「ワーゲン!やった!!」

「白瀬君もどうだい?」

「先輩!行こうよ、ワーゲンだぜ!」


「行きません」


先生に一言。そして直紀に言った。


「月曜日から試験だよ。謹慎中でも試験は関係なく行われるはずだけど。
北沢君、そんなに余裕
があるなんてすごいね」

えっ!?と、直紀が先生の方を見た。

「先生!俺試験なんて聞いてない!全然試験勉強してねぇよ!!」

先生は僕の方を見て聞いた。

「試験?中・高等部一斉の?」

「一斉です。ちゃんとオフィスセンターから連絡メールが来ているはずですけど」







やっと自分の部屋に帰る。

何だか疲れて机の椅子にもたれるように座った。

机の上に空(から)の花籠を置く。ひとつ先生の所から持って来た。

来月のホワイトデーに、母さんに花籠を作って送ってみようか。

毎年チョコレートを送って来てくれるけど、今まで何も返したことがない。


母さんの好きな白いリンドウの花籠を・・・。


上着を脱ごうとしてポケットのチョコレートに気がついた。

先生がくれたチョコレート。

箱にフィルムがない。手作りのチョコレートだ。

中を開けてみた。


一枚のメッセージカードとともに、5個の一口大のチョコレートが綺麗な紙トレイに乗っていた。

ビターが1つ、ハーフビターが1つ、アーモンドが1つ、ミルクが2つ。

明日、試験勉強の合間に達彦たちと食べよう。


メッセージカードは短い文ながら、端正な字で綴られていた。

―いつも花に囲まれていますね。花を見つめている姿が好きです。
                       090−3667−××××
                   斉藤 和花(さいとう わか) 22歳―


和む花と書いて和花・・・。22歳だ。僕より5歳年上、先生より5歳年下。

どんな人なのだろう。いつも先生を見かけるならこの近くの人かな・・・。

カードを見ながら、ため息混じりの先生の言葉を思い出した。


―おばちゃんばっかりだけどね・・・―


でもないのに・・・このカードは先生に渡すべきなのかな・・・。

僕は少し迷ったけれど、すぐ思い直した。

メッセージカードを裏向けに伏せて、空の花籠に入れた。

毎年のようにバレンタインチョコレートを放ったらかしにしている、これは―


先生への罰。







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